「テキーラジャーナル2022」リリース記念コラム~最初のメスカル~著者:エドゥアルド・ベラウンサラン

「最初のメスカル」

著者:Eduardo Belaunzarán
Wakaha mezcal インポート・マネージングパートナー・メスカル研究者
2022年1月26日発表。

 

はじめに:本稿は、メスカルの起源にまつわる数多くの仮説の一つを示す目的で執筆された。実際の人物、事実や状況が描かれているが、物語自体は筆者の想像の産物以外の何物でもない。ご容赦願えれば幸いである。

 


「陸が見えるぞ!」という叫び声を耳にして、彼はハンモックから飛び起きた。大股で数歩進み梯子を昇って船の甲板左舷に上がった。遠くにバーラ・デ・ナビダ港(ハリスコ州)が見えた。

 

1519年10月にスペイン人の先住民のトラスカラ族との同盟が具体化して、300人の女性たちと一緒に征服者に引き渡されたアロトルは14歳の少女だった。1519年4月22日にベラクルス沿岸にエルナン・コルテスと共に到着したスペイン王国の粗野な船長のバスク人フアン・バウティスタ=エリサガライに譲られる不運に見舞われた。

 

彼女は数週間前に暴力と欲望、軽蔑によって思いやりのかけらもなく拘束された後に捨てられ、二人は再会することはなかった。

 

15歳になったばかりのアロトルは、1520年6月30日にチョルーラの掘立て小屋の中のゴザの上で男児を産んだ。その日は、コルテスがポポトラでメキシコラクウショウの木に寄りかかって涙した「悲しき夜」を過ごした日でもあった。

 

「悲しき夜」/作者不明

 

その子は、ナワトル語で勇敢という意味のトラパルティックと名付けられ、新たな植民地のヌエバ・エスパーニャで誕生した最初のメスティソ(混血)の一人だった。

 

トラパルティックがわずか5歳のときに母のアロトルは天然痘で死んだ。聖アウグスティヌス会の神父たちに引き取られて、生活を確保し教育を受けた。それから少年は当時の伝統に従って、バスコ・エリサガライという名前で洗礼を受けた。

 

バスコは、祖先のトラスカラ族が栽培していたメトル−スペイン人がマゲイと呼んでいた植物に囲まれて育った。

人々は、メトルから、針、糸、衣類用の布、燃料、家畜用の餌、蜜、建築資材、薬とオクトリ(プルケ)という名のアルコール飲料を得ていた。

 

トラパルティックは、父からは白い肌を受け継いだが、髪の色は母と同様に黒く、瞳は暗い色で、肩幅は広く背も高かった。大きく逞しい両手は、ナワ族とバスク人の両祖父のように、戦闘にはぴったりであった。
父親から受け継いだ濃い顎髭が際立っていた。獅子鼻で端正な顔立ちとして描かれた顔には、カリスマ的な微笑みが浮かんでいた。しゃがれ声は命令を出すのに向いていた。

「アステカ族の神話と幻想(コルテスとマリンツィン)」ホセ=クレメンテ・オロスコ(1883-1949)

 

ヌエバ・エスパーニャ植民地が副王による統治となった1635年に、スペイン本国はトラパルティックを徴用した。領土の拡大と新たな都市の建設のための兵士の確保を急務としていた本国は、征服前に同盟者でありメシカ(アステカ)族を倒す上で活躍したトラスカラ族を助けていた。
当時バスコは15歳だった。

 

そして「聖ヤコブ、スペインをお助け下さい」という叫びと共に、バスコは拡大した新征服地を縦横無尽に巡り、チョルテカ、トゥスパン、シラオ、テウアカンの都市を築いた。
その後今日のオアハカであるアンテケラにしばらくの間定住した。

 

トラパルティックは、それまでに見たことがなかったマゲイが育つアンテケラがとても気に入っていた。
同地で新たな儀礼に従って、スペイン語で「到来した花」を意味するシアダニという名前のサポテカ族の若い女性と結婚した。

 

彼女は、小柄で黒い瞳をした勇敢で知的な非常に美しく情熱的な女性だった。黒い髪はいつもボサボサで、豊かな胸と細いが引き締まった腰回りをしていた。
満面の笑みを浮かべて、夜は裏切りと解釈される「サソリの夢」を見ていた。スペイン語の読み書きを覚えるのに大して苦労をすることもなく、やむなくキリスト教に改宗した。リリア=イネスという名前で洗礼を受けたが、女性であったために苗字を与えられなかった。

 

バスコは除隊後、妻と共に1625年に建設されたトラスカラ市に移住した。
現地では、二人とも熟知していたマゲイの販売に専念した。夫婦はオクトリ(プルケ)、メカテ(縄)、針や燃料を売っていた。

 

トラスカラでは、ある運命がトラパルティックを待ち受けていた。
パンプロナ(バスク語も話されるスペインナバーラ州都)出身で、「エル・ビエホ」というあだ名でも知られていたミゲル・ロペス=デ=レガスピと知り合い、共にバスク地方出身という共通点があったからだけではなかったが、直ちに意気投合した。

「ミゲル・ロペス=デ=レガスピ」

 

1564年9月24日、スペインのフェリペ2世は、植民地のヌエバ・エスパーニャからモルッカ諸島(現在のインドネシア領)への遠征隊の派遣命令を下し、ミゲル・ロペス=デ=レガスピに指揮を執るよう任命し、「提督・将軍及び征服するに至る全土の総督」と命名した。

 

1564年11月21日に、一攫千金を求めてバスコ・エリサガライは、スペイン軍の増援に来た100人以上のトルテカ族戦士と共に、ロペス=デ=レガスピ率いる征服目的の遠征へと乗員約350人を乗せた5隻の船団で、バーラ・デ・ナビダ港を出港した。

 

93日間の慌ただしい航海の後に、トラパルティック、レガスピと一行は目的地に到着し、今日フィリピンと呼ばれる地域の征服に着手した。

 

なお、フィリピンは、スペインのカルロス1世兼神聖ローマ帝国のカール5世の時代に、息子のフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)の名に因んで探検家のルイ・ロペス=デ=ビジャロボスによって命名された。

 

今日のマニラが置かれているセブ島で、バスコは、現地で高く評価されている椰子という植物のことを住民から聞き及んだ。椰子は、バスコがこよなく愛しており、栽培風景を恋しく感じていたマゲイを彷彿とさせるものであった。両者の類似点は形ではなく、あらゆる気候と土壌に適応できるという特質であった。

 

両方の植物からは、家屋を作る資材、蜜、衣類、食べ物、薬、道具などを作ることができた以外に、飲み物も取れた。

「ミゲル・ロペス=デ=レガスピのフィリピン諸島への遠征行程」

 

庇護者であったロペス=デ=レガスピの死後、トラパルティックは生まれ故郷の副王領に戻った。遠征により多くの経験を積み多様な知識を得たとはいえ、帰郷時は出発時同様貧乏であった。
副王領ではそれまで見たことがない切れ長の目をした黄色人種の男たちが一緒にやって来た。
スペイン人は彼らを「中国のインディオ」と呼んだ。

 

その男たちは、色々な植物、家具、果物、鉱物、動物を持って来た。こうしてガレオン船によるフィリピン航路が開通したのである!

 

一方、トラパルティックの帰還を待っていたシアダニは、マゲイでなんとか生計を立てていた。
今や夫が戻り、「トゥバ」と呼ばれるフィリピン由来の椰子の実で新しいお酒を作り始めた。

 

それは発酵前には爽やかで甘い身体に良い飲み物であり、発酵後にはオクトリのようにお酒になったが、オクトリ同様にすぐに劣化してしまった。それを蒸留したものは、フィリピンでは「ランバノグ」という名で知られていたものが、その後ヌエバ・エスパーニャでは「椰子ワイン」として知られることになる。

 

彼らは住居の後ろに、フィリピンで主流であった蒸留器のようなアジア式蒸留器を作った。それは、鍋を木の幹の空洞部の上に、竈門を下に置くという装置で、流水を用いる極めてシンプルな凝縮システムであった。そして「トゥバ」の蒸留を開始した。

ランバノグ生産用「カワ」という名のフィリピン式蒸留器
(c.1912) mezcaleando.com

 

ある日、トラパルティックとシアダニは、何か新しいものを作ろうというインスピレーションを得て、マゲイでプルケを作りそれを蒸留した。
また別の日には、トゥバの作り方に似せて、アガベのピニャを加熱してから砕いて、蒸留目的でその液体を発酵させた。出来上がったものは、ヌエバ・エスパーニャで作られた「メトル–イスカリ」−加熱したマゲイ−の最初のワインであった。

 

その時以来メスカルが世界中の酒屋や酒場などの商品棚に置かれるようになるまでには様々の出来事が起こり、何世紀もの歳月が過ぎていったのである。

 

掲載されている画像は、最後のもの以外は公開対象である。

 

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Eduardo Belaunzarán
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【プロフィール】

 

Eduardo Belaunzarán
エドゥアルド・ベラウンサラン

メキシコシティ出身。
友人からはという”Lalo”という愛称で呼ばれている。
彼の「美食美酒(ワイン)」(”la bonne chère et des bon vin”)への情熱は、20年に及ぶパリ生活の中で育まれた。

現在はアメリカ合衆国でメキシコの酒類を輸入している他、アガベ蒸留酒の専門家として活躍、Wahaka Mezcal and Back Alley Imports 社のマネージングパートナーでもある。
メキシコ全土の何世代にも渡って作られている独自で複雑な蒸留酒への情熱と知識を共有することに大きな喜びを感じる。

アガベ蒸留酒普及への献身的な取り組みが評価されて、2018年3月CRMのオフィシャルメスカルアンバサダーの名誉職を拝するに至った。
執筆した数多くの記事小論は英語、ドイツ語、日本語に翻訳されている。
http://mezcaleando.com/

 

 

訳者:松浦芳枝
注:本稿は、著者がmezcaleando.comに寄稿した最新作”El Primer Mezcal”の和訳である。

蒸留技術の知識が不可欠なメスカルの起源については今日でも諸説があるが、ここで語られている「アジアからの影響」説は、学術的に最も支持されていると言える。スペインによる征服前夜以降のメキシコへ私たちを誘う筆致にはロマンが漂う。なお、メスティソである主人公に名前が二つあるため、わかりにくい部分もあるが、原文を尊重した表記を行なっている。